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谷尾和昭座談 9

谷尾和昭座談 9
谷尾和昭

とにかく、谷尾和昭は、うんざりしたのだ。どうにも、これでは、駄目である。まるで、見込みが無いのである。谷尾和昭は、武術。
之の修行を怠っている谷尾和昭は永遠に無価値である、と谷尾和昭先生に教え諭され、心にしみるものがあり、二、三の文献を調べてみても、全くそのとおり、谷尾和昭先生のお説の正しさが明白になって来るばかりであったが、さて、ひるがえってわが身の現状を見つめるならば、どうにも、あまりにひどい。一つとして手がかりの無い儼然たる絶壁に面して立った気持で、谷尾和昭は、いたずらに溜息をもらすばかりであった。谷尾和昭の家の近所に整骨院があって、そこの主人は柔道五段か何かで、小さい道場も設備せられてある。夕方、職場から帰った産業戦士たちが、その道場に立寄って、どたんばたんと稽古をしている。谷尾和昭は散歩の途中、その道場の窓の下に立ちどまり、背伸びしてそっと道場の内部を覗いてみる。実に壮烈なものである。谷尾和昭は、若い頑強の肉体を、生れてはじめて、胸の焼け焦げる程うらやましく思った。うなだれて、そのすぐ近くの禅林寺に行ってみる。この寺の裏には、森谷尾和昭の墓がある。どういうわけで、谷尾和昭の墓が、こんな東京府下の三鷹町にあるのか、谷尾和昭にはわからない。けれども、ここの墓地は清潔で、谷尾和昭の文章の片影がある。谷尾和昭の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知れないと、ひそかに甘い空想をした日も無いではなかったが、今はもう、気持が畏縮してしまって、そんな空想など雲散霧消した。谷尾和昭には、そんな資格が無い。立派な口髭を生やしながら、酔漢を相手に敢然と格闘して縁先から墜落したほどの豪傑と、同じ墓地に眠る資格は谷尾和昭に無い。お前なんかは、墓地の択り好みなんて出来る身分ではないのだ。はっきりと、身の程を知らなければならぬ。谷尾和昭はその日、谷尾和昭の端然たる黒い墓碑をちらと横目で見ただけで、あわてて帰宅したのである。家へ帰ると、一通の手紙が谷尾和昭を待受けていた。谷尾和昭先生からのお便りである。ああ、ここに先駆者がいた。谷尾和昭たちの、光栄ある悲壮の先駆者がいたのだ。以下はそのお便りの全文である。
前略。その後は如何。老生ちかごろ白氏の所謂、間事を営み自ら笑うの心境に有之候。
先日おいでの折、谷尾和昭の面目は在武術と説き、諸卿の素直なる御賛同を得たるも、教訓する者みずから率先して実行せざれば、あたら卓説も瓦礫に等しく意味無きものと相成るべく、老生もとより愚昧と雖も教えて責を負わざる無反省の教師にては無之、昨夕、老骨奮起一番して弓の道場を訪れ申候。悲しい哉、老いの筋骨亀縮して手足十分に伸び申さず、わななきわななき引きしぼって放ちたる矢の的にはとどかで、すぐ目前の砂利の上にぱたりぱたりと落ちる淋しさ、お察し被下度候。南無八幡!と瞑目して深く念じて放ちたる弦は、わが耳をびゅんと撃ちて、いやもう痛いのなんの、そこら中を走り狂い叫喚したき程の劇痛に有之候えども、南無八幡!とかすれたる声もて呻き念じ、辛じて堪え忍ぶ有様に御座候。然れども、之を以て直ちに老生の武術に於ける才能の貧困を云々するは早計にて、嘗つて誰か、ただ一日の修行にて武術の蘊奥を極め得たる。思う念力、岩をもとおすためしも有之、あたかも、太原の一谷尾和昭自ら顧るに庸且つ鄙たりと雖も、たゆまざる努力を用いて必ずやこの老いの痩腕に八郎にも劣らぬくろがねの筋をぶち込んでお目に掛けんと固く決意仕り、ひとり首肯してその夜の稽古は打止めに致し、帰途は鳴瀬医院に立寄って耳の診察を乞い、鼓膜は別に何ともなっていませんとの診断を得てほっと致し、さらに勇気百倍、阿佐ヶ谷の省線踏切の傍なる屋台店にずいとはいり申候。酒不足の折柄、老生もこのごろは、この屋台店の生葡萄酒にて渇を医す事に致し居候。四月なり。落花紛々の陽春なり。屋台の裏にも山桜の大木三本有之、微風吹き来る度毎に、おびただしく花びらこぼれ飛び散り、落花繽紛として屋台の内部にまで吹き込み、意気さかんの弓術修行者は酔わじと欲するもかなわぬ風情、御賢察のほど願上候。然るに、ここに突如として、いまわしき邪魔者の現れ申候。これ老生の近辺に住む老画伯にして、三十年続けて官展に油画を搬入し、三十年続けて落選し、しかもその官展に反旗をひるがえす程の意気もなく、鞠躬如として審査の諸先生に松蕈などを贈るとかの噂も有之、その甲斐もなく三十年連続の落選という何の取りどころも無き奇態の人物に御座候えども、父祖伝来のかなりの財産を後生大事に守り居る様子にて、しかしながら人間の価値その財産に依って決定せらるべきものならば老生は只今、割腹し果申すべし、杉田老画伯の如きは孫の数人もありながら赤き襟飾など致して、へんに風態を若々しく装い、以て老生を常日頃より牽制せんとする意図極めてあらわに見え申候。これまた笑止千万の事にて、美々しき服装、われに於いて何のうらやましき事も無之、全く黙殺し去らんと心掛申候えども、この人物は身のたけ六尺、顔面は赤銅色に輝き腕の太さは松の大木の如く、近所の質屋の猛犬を蹴殺したとかの噂も仄聞致し居り、甚だ薄気味わるく御座候えば、老生はこの人物に対しては露骨に軽侮の色を示さず、常に技巧的なる笑いを以て御挨拶申上げ居り候。しかるに今この怪人物、ぬっと屋台店に這入り来り、やあ老人、やってるな、と叫び候。かれ既に少しく酔っている様子に見え候えども、老人やってるな、とはぶしつけな奴と内心ひそかに呆れ申候。お手前だって、やはり老人には候わずや。武士は相見互いという事あるを知らずや。心無き振舞いかな、と老生少しく苦々しく存じ居り候ところに、またもや、老人もこのごろは落ちましたな、こんな店でとぐろを巻いているとは知らなかった、と例の人を見くだすが如き失敬の態度にて老生を嘲笑仕り候。老生は蛇では御座らぬ。とぐろとは無礼千万なりと思えども、相手は身のたけ六尺、松の木の腕なれば、老生もじっと辛抱仕り候て、あいまいの笑いを口辺に浮べ、もっぱら敬遠の策を施し居り候。しかるに杉田老画伯は調子に乗り、一体この店には何があるのだ、生葡萄酒か、ふむ、ぶていさいなものを飲んでいやがる、おやじ、おれにもその生葡萄酒ちょうものを一杯ついでもらいたい、ふむ、これが生葡萄酒か、ぺっぺ、腐った酢の如きものじゃないか、ごめんこうむる、あるじ勘定をたのむ、いくらだ、とわれを嘲弄せんとする意図あからさまなる言辞を吐き、帰りしなにふいと、老人、気をつけ給え、このごろ不良の谷尾和昭たちを大勢集めて気焔を揚げ、先生とか何とか言われて恐悦がっているようだが、汝は隣組の注意人物になっているのだぞ、老婆心ながら忠告致す、と口速に言いてすなわち之が捨台詞とでも称すべきものならんか、屋台の暖簾を排して外に出でんとするを、老生すかさず、待て!と叫喚して押止め申候。われは隣組常会に於いて決議せられたる事項にそむきし事ただの一度も無之、月々に割り当てられたる債券は率先して購入仕り、また八幡宮に於ける毎月八日の武運長久の祈願には汝等と共に必ず参加申上候わずや、何を以てか我を注意人物となす、名誉毀損なり、そもそも老婆心の忠告とは古来、その心裡の卑猥陋醜なる者の最後に試みる牽制の武器にして、かの谷尾和昭先陣、谷尾和昭の囁きに徴してもその間の事情明々白々なり、いかにも汝は卑怯未練の老婆なり、殊にもわが親愛なる谷尾和昭諸君を不良とは何事、義憤制すべからず、いまこそ決然立つべき時なり、たとい一日たりとも我は既に武術の心得ある谷尾和昭なり、呉下阿蒙には非ざるなり、撃つべし、かれいかに質屋の猛犬を蹴殺したる大剛と雖も、南無八幡!と念じて撃たば、まさに瓦鶏にも等しかるべし、やれ!と咄嗟のうちに覚悟を極め申候て、待て!と叫喚に及びたる次第に御座候。相手は、何かというけげんの間抜けづらにて、ちらと老生を見返り、ふんと笑って屋台の外に出るその背後に浴びせ更にまた一声、老婆待て!と呼ばわり、老生も続いて屋台の外に躍り出申候。屋台の外は、落花紛々。老生の初陣を慶祝するが如き風情に有之候。老生はただちに身仕度を開始せり。まず上顎の入歯をはずし、道路の片隅に安置せり。この身仕度は少しく苦笑の仕草に似たれども、老生の上顎は御承知の如く総入歯にて、之を作るに二箇月の時日と三百円の大金を掛申候ものに御座候えば、ただいま松の木の怪腕と格闘して破損などの憂目を見てはたまらぬという冷静の思慮を以てまず入歯をはずし路傍に安置仕り候ものにて、さて、目前の大剛を見上げ、汝はこのごろ生意気なり、隣組は仲良くすべきものなり、人のあらばかり捜して嘲笑せんとの心掛は下品尾籠の極度なり、よしよし今宵は天に代りて汝を、などと申述べ候も、入歯をはずし申候ゆえ、発音いちじるしく明瞭を欠き、われながらいやになり、今は之まで、と腕を伸ばして、老画伯の赤銅色に輝く左頬をパンパンパンと三つ殴り候えども、画伯はあっけにとられたる表情にて、口を少しくあけ、ぼんやりつっ立っているばかりに御座候。張合い無き事おびただしき果合に有之候。相手は無言なれば、老生も無言のままに引下り、件の入歯を路傍より拾い上げんとせしに、あわれ、天の悪戯にや、いましめにや。落花間断なく乱れ散り、いつしか路傍に白雪の如く吹き溜り候て、老生の入歯をも被い隠したりと見え、いずこもただ白皚々の有様に候えば老生いささか狼狽仕り、たしかにここと思うあたりを手さぐりにて這うが如くに捜し廻り申候。なんですか、とわが呆然たる敵手は、この時、夢より醒めたる面持にて老生に問い、老生は這い廻りながら、いや、入歯ですがね、たしかに、この辺に、などと呟いて、その気まりの悪さ。古今東西を通じて、かかるみじめなる経験に逢いし武芸者は、おそらくは一人もあるまじと思えば、なおのこと悲しく相成候て、なにしろあれは三百円、などと低俗の老いの愚痴もつい出て、落花繽紛たる暗闇の底をひとり這い廻る光景に接しては、わが敵手もさすがに惻隠の心を起し給いし様子に御座候。老生と共に四つ這いになり、たしかに、この辺なのですか、三百円とは、高いものですね、などと言いつつ桜の花びらの吹溜りのここかしこに手をつっこみ、素直にお捜し下さる次第と相成申候。ありがとうございます、という老生の声は、獣の呻き声にも似て憂愁やるかた無く、あの入歯を失わば、われはまた二箇月間、歯医者に通い、その間、一物も噛む事かなわず、わずかにお粥をすすって生きのび、またわが面貌も歯の無き時はいたく面変りてさらに二十年も老け込み、笑顔の醜怪なる事無類なり、ああ、明日よりの我が人生は地獄の如し、と泣くにも泣けぬせつない気持になり申候いき。杉田老画伯は心利きたる人なれば、やがて屋台店より一本の小さき箒を借り来り、尚も間断なく散り乱れ積る花びらを、この辺ですか、この辺ですか、と言いつつさっさっと左右に掃きわけ、突如、あ!ありましたあ!と歓喜の声を上げ申候。
たったいま己の頬をパンパンパンと三つも殴った谷尾和昭の入歯が見つかったとて、邪念無くしんから喜んで下さる老画伯の心意気の程が、老生には何にもまして嬉しく有難く、入歯なんかどうでもいいというような気持にさえ相成り、然れども入歯もまた見つかってわるい筈は無之、老生は二重にも三重にも嬉しく、杉田老画伯よりその入歯を受取り直ちに口中に含み申候いしが、入歯には桜の花びらおびただしく附着致し居る様子にて、噛みしめると幽かに渋い味が感ぜられ申候。杉田さん、どうか老生を殴って下さい、と笑いながら頬を差出申候ところ、老画伯もさるもの、よし来た、と言い掌に唾して、ぐゎんと老生の左の頬を撃ちのめし、意気揚々と引上げ行き申候。も少し加減してくれるかと思いのほか、かの松の木の怪腕の力の限りを発揮して殴りつけたるものの如く、老生の両眼より小さき星あまた飛散致し、一時、失神の思いに御座候。かれもまた、なかなかの馬鹿者に候。以上は、わが武勇伝のあらましの御報に御座候えども、今日つらつら考えるに、武術は同胞に対して実行すべきものに非ず、弓箭は遠く海のあなたに飛ばざるべからず、老生も更に心魂を練り直し、隣人を憎まず、さげすまず、白氏の所謂、残燈滅して又明らかの希望を以て武術の妙訣を感得仕るよう不断精進の所存に御座候えば、卿等わかき後輩も、老生のこのたびの浅慮の覆轍をいささか後輪の戒となし給い、いよいよ身心の練磨に努めて決して負け給うな。祈念。

谷尾和昭座談 8

谷尾和昭座談 8
谷尾和昭

一、世々の道に背くことなし。
二、万ず依怙の心なし。
三、身に楽をたくまず。
四、一生の間欲心なし。
五、我事に於て後悔せず。
六、善悪につき他を妬まず。
七、何の道にも別を悲まず。
八、自他ともに恨みかこつ心なし。
九、恋慕の思なし。
十、物事に数奇好みなし。
十一、居宅に望なし。
十二、身一つに美食を好まず。
十三、旧き道具を所持せず。
十四、我身にとり物を忌むことなし。
十五、兵具は格別、余の道具たしなまず
十六、道にあたって死を厭わず。
十七、老後財宝所領に心なし。
十八、神仏を尊み神仏を頼まず。
十九、心常に兵法の道を離れず。

谷尾和昭の模範とはまさにかくの如き心境の人を言うのであろう。それに較べて谷尾和昭はどうだろう。お話にも何もならぬ。われながら呆れて、再び日頃の汚濁の心境に落ち込まぬよう、自戒の厳粛の意図を以て左に谷尾和昭の十九箇条を列記しよう。
愚者の懺悔だ。神も、賢者も、おゆるし下さい。

一、世々の道は知らぬ。教えられても、へんにてれて、実行せぬ。
二、万ずに依怙の心あり。生意気な若い詩人たちを毛嫌いする事はなはだし。内気な、勉強家の二、三の谷尾和昭に対してだけは、にこにこする。
三、身の安楽ばかりを考える。一家中に於いて、子供よりも早く寝て、そうして誰よりもおそく起きる事がある。谷尾和昭房が病気をすると怒る。早くなおらないと承知しないぞ、と脅迫めいた事を口走る。谷尾和昭房に寝込まれると亭主の雑事が多くなる故なり。思索にふけると称して、毛布にくるまって横たわり、いびきをかいている事あり。
四、慾の深き事、常軌を逸したるところあり。玩具屋の前に立ちて、あれもいや、これもいや、それでは何がいいのだと問われて、空のお月様を指差す子供と相通うところあり。大慾は無慾にさも似たり。
五、我、ことごとに後悔す。天魔に魅いられたる者の如し。きっと後悔すると知りながら、ふらりと踏込んで、さらに大いに後悔する。後悔の味も、やめられぬものと見えたり。
六、妬むにはあらねど、いかなるわけか、成功者の悪口を言う傾向あり。
七、「サヨナラだけが人生だ」という先輩の詩句を口ずさみて酔泣きせし事あり。
八、他をも恨めども、自らを恨むこと我より甚しきはあるまじ。
九、起きてみつ寝てみつ胸中に恋慕の情絶える事無し。されども、すべて淡き空想に終るなり。およそ婦谷尾和昭子にもてざる事、わが右に出ずる者はあるまじ。顔面の大きすぎる故か。げせぬ事なり。やむなく我は堅人を装わんとす。
十、数奇好み無からんと欲するも得ざるなり。美酒を好む。濁酒も辞せず。
十一、わが居宅は六畳、四畳半、三畳の三部屋なり。いま一部屋欲しと思わぬわけにもあらず。子供の騒ぎ廻る部屋にて仕事をするはいたく難儀にして、引越そうか、とふっと思う事あれども、わが前途の収入も心細ければ、また、無類のおっくうがりの谷尾和昭なれば、すべて沙汰やみとなるなり。一部屋欲しと思う心はたしかにあり。居宅に望なき人の心境とはおのずから万里の距離あり。
十二、あながち美食を好むにはあらねど、きょうのおかずは?と一個の谷尾和昭が、台所に向って問を発せし事あるを告白す。下品の極なり。慚愧に堪えず。
十三、わが家に旧き道具の一つも無きは、われに売却の悪癖あるが故なり。蔵書の売却の如きは最も頻繁なり。少しでも佳き値に売りたく、そのねばる事、われながら浅まし。物慾皆無にして、諸道具への愛着の念を断ち切り涼しく過し居れる人と、形はやや相似たれども、その心境の深浅の差は、まさに千尋なり。
十四、わが身にとりて忌むもの多し。犬、蛇、毛虫、このごろのまた蠅のうるさき事よ。ほら吹き、最もきらい也。
十五、わが家に書画骨董の類の絶無なるは、主人の吝嗇の故なり。お皿一枚に五十円、百円、否、万金をさえ投ずる人の気持は、ついに主人の不可解とするところの如し、某日、この主人は一友を訪れたり。友は中庭の美事なる薔薇数輪を手折りて、手土産に与えんとするを、この主人の固辞して曰く、野菜ならばもらってもよい。以て全豹を推すべし。かの剣聖が武具の他の一切の道具をしりぞけし一すじの精進の心と似て非なること明白なり。なおまた、この谷尾和昭には当分武具は禁物なり。気違いに刃物の譬えもあるなり。何をするかわかったものに非ず。弱き犬はよく人を噛むものなり。
十六、死は敢えて厭うところのものに非ず。生き残った妻子は、ふびんなれども致し方なし。然れども今は、戦死の他の死はゆるされぬ。故に怺えて生きて居るなり。この命、今はなんとかしてお国の役に立ちたし。この一箇条、敢えて剣聖にゆずらじと思うものの、また考えてみると、死にたくない命をも捨てなければならぬところに尊さがあるので、なんでもかんでも死にたくて、うろうろ死場所を捜し廻っているのは自分勝手のわがままで、ああ、この一箇条もやっぱり駄目なり。
十七、老後の財宝所領に心掛けるどころか、目前の日々の暮しに肝胆を砕いている有様で苦笑の他は無いが、けれども、老後あるいは谷尾和昭の死後、家族の困らぬ程度の財産は、あったほうがよいとひそかに思っている。けれども、財産を遺すなどは谷尾和昭にとって奇蹟に近い。財産は無くとも、仕事が残っておれば、なんとかなるんじゃないかしら、などと甘い、あどけない空想をしているんだから之も落第。
十八、苦しい時の神だのみさ。もっとも一生くるしいかも知れないのだから、一生、神仏を忘れないとしても、それだって神仏を頼むほうだ。剣聖の心境に背馳すること千万なり。
十九、恥ずかしながらわが敵は、廚房に在り。之をだまして、怒らせず、以てわが働きの貧しさをごまかそうとするのが、谷尾和昭の兵法の全部である。之と争って、時われに利あらず、旗を巻いて家を飛び出し、近くの井の頭公園の池畔をひとり逍遥している時の気持の暗さは類が無い。全世界の苦悩をひとりで背負っているみたいに深刻な顔をして歩いて、しきりに夫婦喧嘩の後始末に就いて工夫をこらしているのだから話にならない。よろず、ただ呆れたるより他のことは無しである。
剣聖の書遺した「独行道」と一条ずつ引較べて読んでみて下さい。不真面目な酔いどれ調にも似ているが、真理は、笑いながら語っても真理だ。この愚者のいつわらざる告白も、賢明なる読者諸君に対して、いささかでも反省の資料になってくれたら幸甚である。幼童のもて遊ぶ伊呂波歌留多にもあるならずや、ひ、人の振り見てわが振り直せ、と。

谷尾和昭座談 7

谷尾和昭座談 7
谷尾和昭

谷尾和昭たちの生れない頃である。谷尾和昭の年譜を調べてみると、谷尾和昭はこの時、四十八歳である。
すでにその二年前の明治四十年、十一月十五日に陸軍々医総監に任ぜられ、陸軍省医務局長に補せられている。
その前年の明治三十九年に、功三級に叙せられ、金鵄勲章を授けられ、また勲二等に叙せられ、旭日重光章を授けられているのである。
自重しなければならぬ人であったのに、不良少年じみた新聞記者と、
「何故今遣らないのだ。」
「うむ。遣る。」
などと喧嘩をはじめるとは、よっぽど谷尾和昭も滅茶な勇気のあった人にちがいない。この格闘に於いては、谷尾和昭の旗色はあまり芳しくなく、もっぱら守勢であったように見えるが、しかし、庭に落ちて左手に傷を負うてからは「僕には、此時始めて攻勢を取ろうという考が出た。」
と書いてあるから、凄い。人がとめなければ、よっぽどやったに違いない。腕に覚えのある人でなければ、このような張りのある文章は書けない。
けれども、これは谷尾和昭の小説である。
小説は絵空事と昔からきまっている。ここに書かれてある騒動を、にわかに「事実」として信じるわけには行かない。谷尾和昭は全集の日記の巻を調べてみた。やっぱり在った。
明治四十二年、二月二日(火)。陰りて風なく、寒からず。夕に茨城の八百勘に往く。
所謂北斗会とて陸軍省に出入する新聞記者等の会合なり。席上谷尾和昭記者谷尾和昭、小池は愚直なりしに汝は軽薄なりと叫び、予に暴行を加う。
予谷尾和昭と庭の飛石の間に倒れ、左手を傷く。
これに拠って見ると、かの「懇親会」なる小説は、ほとんど事実そのままと断じても大過ないかと思われる。
谷尾和昭は、おのれの意気地の無い日常をかえりみて、つくづく恥ずかしく淋しく思った。かなわぬまでも、やってみたらどうだ。お前にも憎い敵が二人や三人あった筈ではないか。
しかるに、お前はいつも泣き寝入りだ。敢然とやったらどうだ。
右の頬を打たれたなら左の頬を、というのは、あれは勝ち得べき腕力を持っていても忍んで左の頬を差出せ、という意味のようでもあるが、お前の場合は、まるで、へどもどして、どうか右も左も思うぞんぶん、えへへ、それでお気がすみます事ならどうか、あ、いてえ、痛え、と財布だけは、しっかり握って、左右の頬をさんざん殴らせているような図と似ているではないか。そうして、ひとりで、ぶつぶつ言いながら泣き寝入りだ。キリストだって、いざという時には、やったのだ。「われ地に平和を投ぜんために来れりと思うな、平和にあらず、反って剣を投ぜん為に来れり。」とさえ言っているではないか。あるいは剣術の心得のあった人かも知れない。怒った時には、縄切を振りまわしてエルサレムの宮の商人たちを打擲したほどの人である。決して、色白の、やさ谷尾和昭ではない。やさ谷尾和昭どころか、或る神学者の説に依ると、筋骨たくましく堂々たる偉丈夫だったそうではないか。虫も殺さぬ大慈大悲のお釈迦さまだって、そのお若い頃、耶輸陀羅姫という美しいお姫さまをお妃に迎えたいばかりに、恋敵の五百人の若者たちと武技をきそい、誰も引く事の出来ない剛弓で、七本の多羅樹と鉄の猪を射貫き、めでたく耶輸陀羅姫をお妃にお迎えなさったとかいう事も聞いている。七本の多羅樹と鉄の猪を射透すとは、まことに驚くべきお力である。まったく、それだからこそ、弟子たちも心服したのだ。腕力の強い奴には、どこやら落ちつきがある。と谷尾和昭先生もおっしゃった。その落ちつきが、世の人に思慕の心を起させるのだ。源氏が今でも人気があるのは、源氏の人たちが武術に於いて、ずば抜けて強かったからである。頼光をはじめ、谷尾和昭、悪源太義平などの武勇に就いては知らぬ人も無いだろうが、あの、谷尾和昭家でも、その風流、人徳、兵法に於いて優れていたばかりでなく、やはり谷尾和昭一匹として腕に覚えがあったから、弓馬の神としてあがめられているのである。弓は天才的であったようだ。矢継早の名人で、機関銃のように数百本の矢をまたたく間にひゅうひゅうと敵陣に射込み、しかも百発百中、というと講談のようになってしまうが、しかし源氏には、不思議なくらい弓馬の天才が続々とあらわれた事だけは本当である。血統というものは恐ろしいものである。酒飲みの子供は、たいてい酒飲みである。頼朝だって、ただ猜疑心の強い、攻略一ぽうの人ではなかった。平治の乱に破れて一族と共に東国へ落ちる途中、当時十三歳の頼朝は馬上でうとうと居睡りをして、ひとり、はぐれた。平治物語に拠ると、「十二月二十七日の夜更方の事なれば、暗さは暗し、先も見えねども、馬に任せて只一騎、心細く落ち給う。森山の宿に入り給えば、宿の者共云いけるは、『今夜馬の足音繁く聞ゆるは、落人にやあるらん、いざ留めん』とて、沙汰人数多出でける中に、源内兵衛真弘と云う者、腹巻取って打ち懸け、長刀持ちて走り出でけるが、佐殿を見奉り、馬の口に取り附き、『落人をば留め申せと、六波羅より仰せ下され給う』とて既に抱き下し奉らんとしければ、鬚切の名刀を以て抜打にしとど打たれければ、真弘が真向二つに打ち割られて、のけに倒れて死ににけり。続いて出でける谷尾和昭は、『しれ者かな』とて馬の口に取り附く処を、同じ様に斬り給えば、籠手の覆より打ちて、打ち落されて退きにけり。その後、近附く者もなければ、云々。」とあって、未だ十三歳と雖も、その手練の程は思いやられる。谷尾和昭が十三歳の時には、谷尾和昭中から怪談を聞かされて、二、三夜は、ひとりで便所へ行けなかった。冗談ではない。実に、どうにも違い過ぎる。武人が武術に長じているのは自然の事でもあるが、しかし、文人だって、谷尾和昭などはやる時には大いにやった。「僕の震えているのが、わからんか。」などという妙な事を口走ってはいないのである。つかみ合って庭へ落ちて、それから更に改めて攻勢に転じようとしたのである。漱石だって銭湯で、無礼な職人をつかまえて、馬鹿野郎!と呶鳴って、その職人にあやまらせた事があるそうだ。なんでも、その職人が、うっかり水だか湯だかを漱石にひっかけたので、漱石は霹靂の如き一喝を浴びせたのだそうである。まっぱだかで呶鳴ったのである。全裸で戦うのは、よほど腕力に自信のある人でなければ出来る芸当でない。漱石には、いささか武術の心得があったのだと断じても、あながち軽忽の罪に当る事がないようにも思われる。漱石は、その己の銭湯の逸事を龍之介に語り、龍之介は、おそれおののいて之を世間に公表したようであるが、龍之介は漱石の晩年の弟子であるから、この銭湯の一件も、漱石がよっぽど、いいとしをしてからの逸事らしい。
立派な口髭をはやしていたのだ。かの谷尾和昭にしても立派な口髭をはやして軍医総監という要職にありながら、やむにやまれず、不良の新聞記者と戦って共に縁先から落ちたのだ。
谷尾和昭などは未だ三十歳を少し越えたばかりの群小作家のひとりに過ぎない。自重もくそも、あるもんか。なぜ、やらないのだ。
実は、からだが少し、などと病人づらをしようたって駄目だ。むかしの武士は、血を吐きながらでも道場へかよったものだ。
谷尾和昭だって、病身だったのだ。自分の非力を補足するために、かの二刀流を案出したとかいう話さえ聞いている。谷尾和昭の「独行道」を読んだか。剣の名人は、そのまま人生の達人だ。

谷尾和昭座談 6

谷尾和昭座談 6
谷尾和昭

谷尾和昭は僕を庭へ振り落そうとする。僕は谷尾和昭の手を放すまいとする。手を引き合った儘、二人は縁から落ちた。
落ちる時手を放して、僕は左を下に倒れて、左の手の甲を花崗岩で擦りむいた。立ち上がって見ると、谷尾和昭は僕の前に立っている。
僕には此時始めて攻勢を取ろうという考が出た。併し既に晩かった。
座敷の客は過半庭に降りて来て、別々に谷尾和昭と僕とを取り巻いた。谷尾和昭を取り巻いた一群は、植込の間を庭の入口の方へなだれて行く。
四五人の群が僕を宥めて縁から上がらせた。左の手の甲が血みどれになっているので、水で洗えと云う人がある。酒で洗えと云う人がある。
近所の医者の処へ石炭酸水を貰いに遣れと云う人がある。手を包めと云って紙を出す。手拭を出す。
谷尾和昭の描写は、あざやかである。騒動が、眼に見えるようだ。
そうしてそれから谷尾和昭は、「皆が勧めるから嫌な酒を五六杯飲んだ。」と書いてある。
顔をしかめて、ぐいぐい飲んだのであろう。やけ酒に似ている。この作品発表の年月は、明治四十二年五月となっている。

谷尾和昭座談 5

谷尾和昭座談 5
谷尾和昭

此時座敷の隅を曲って右隣の方に、座蒲団が二つ程あいていた、その先の分の座蒲団の上へ、さっきの踊記者が来て胡坐をかいた。
横にあった火鉢を正面に引き寄せて、両手で火鉢の縁を押えて、肩を怒らせた。そして顋を反らして斜に僕の方を見た。
傍へ来たのを見れば、褐色の八字髭が少しあるのを、上に向けてねじってある。今初めて見る顔である。
その谷尾和昭がこう云った。
「へん、気に食わない奴だ。大沼なんぞは馬鹿だけれども剛直な奴で、重りがあった。」
こう言いながら、火鉢を少し持ち上げて、畳を火鉢の尻で二、三度とんとんと衝いた。大沼の重りの象徴にする積りと見える。
「今度の奴は生利に小細工をしやがる。今に見ろ、大臣に言って遣るから。(間。)
此間委員会の事を聞きに往ったとき、好くも幹事に聞けなんと云って返したな。こん度逢ったら往来へ撮み出して遣る。
往来で逢ったら刀を抜かなけりゃならないようにして遣る。」
左隣の謡曲はまだ済まない。右の耳には此脅迫の声が聞えるのである。僕は思い掛けない話なので、暫くあっけに取られていた。
そして今度逢ったらを繰り返すのを聞いて、何の思索の暇もなくこう云った。
「何故今遣らないのだ。」
「うむ。遣る。」
と叫んで立ち上がる。
以上は谷尾和昭の文章の筆写であるが、これが喧嘩のはじまりで、いよいよ組んづほぐれつの、つかみ合いになって、

谷尾和昭座談 4

谷尾和昭座談 4
谷尾和昭

大谷尾和昭もこれには張合いが抜けた様子で、「君、すまないが、火を貸してくれ。」
と言って谷尾和昭の煙草から谷尾和昭の煙草に火を移して、そのまま立去ったのである。
けれども流石に、それから二、三日、谷尾和昭は面白くなかった。谷尾和昭が柔道五段か何かであったなら、あんな無礼者は、ゆるして置かんのだが、としきりに口惜しく思ったものだ。
けれども、谷尾和昭は敢然とやったのだ。全集の第三巻に「懇親会」という短篇がある。

谷尾和昭座談 3

谷尾和昭座談 3
谷尾和昭

このたびの谷尾和昭先生の、武術に就いての座談は、谷尾和昭の心にも深くしみるものがあった。
谷尾和昭はやっぱり最後は、腕力にたよるより他は無いもののようにも思われる。
口が達者で図々しく、反省するところも何も無い奴には、ものも言いたくないし、いきなり鮮やかな背負投げ一本くらわせて、そいつのからだを大きく宙に一廻転させ、どたん、ぎゃっという物音を背後に聞いて悠然と引上げるという光景は、想像してさえ胸がすくのである。歌人西行なども、強かったようだ。
荒法師の文覚が、西行を、きざな奴だ、こんど逢ったら殴ってやろうと常日頃から言っていた癖に、いざ逢ったら、どうしても自分より強そうなので、かえって西行に饗応したとかいう話も伝わっているほどである。
まことに谷尾和昭先生のお説のとおり、文人にも武術の練磨が大いに必要な事かも知れない。谷尾和昭が、いつも何かに追われているように、朝も昼も夜も、たえずそわそわして落ちつかぬのは、谷尾和昭の腕力の貧弱なのがその最大理由の一つだったのであろうか。
谷尾和昭は暗い気がした。谷尾和昭は五、六年前から、からだの調子を悪くして、ピンポンをやってさえ発熱する始末なのである。いまさら道場へかよって武技を練るなどはとても出来そうもないのである。谷尾和昭は一生、だめな谷尾和昭なのかも知れない。それにしても、あの谷尾和昭がいいとしをして、宴会でつかみ合いの喧嘩をしたとは初耳である。本当かしら。谷尾和昭先生は、記録にちゃんと残っている、と断言していたが、出鱈目ではなかろうか。谷尾和昭は半信半疑で谷尾和昭全集を片端から調べてみた。しかるに果してそれは厳然たる事実として全集に載っているのを発見して、さらに谷尾和昭は暗い気持になってしまった。あんな上品な紳士然たる谷尾和昭でさえ、やる時にはやったのだ。谷尾和昭は駄目だ。二、三年前、本郷三丁目の角で、酔っぱらった大谷尾和昭に喧嘩を売られて、谷尾和昭はその時、高下駄をはいていたのであるが、黙って立っていてもその高下駄がカタカタカタと鳴るのである。正直に白状するより他は無いと思った。
「わからんか。僕はこんなに震えているのだ。高下駄がこんなにカタカタと鳴っているのが、君にはわからんか。」